ハングルの原型となった「訓民正音」は、韓国が世界に誇る自国の文化だ。既存の文字から影響を受けずに独創的に新しい文字を作り、それを一国家の公用文字として使用するようにしたことは世界にも類例がないそう。
そんな訓民正音に関する悲劇をご存知だろうか。
韓国の慶尚北道尚州市のとある民家で2015年3月26日午前、火災があった。人的被害はなかったものの、火災に遭ったペ氏の自宅は全焼。ここまではことさら取り上げるまでもない事件かもしれないが、実はこのペ氏、骨董品や古書籍を数多く所有していた人物で、その中には「訓民正音」に関する世界遺産級の史料があった可能性があるということで、大騒ぎとなった。
訓民正音は1446年に時の王・世宗によって創製されたのだが、その当時、訓民正音について解説した本が「訓民正音解例本」だ。
1940年に発見された「解例本」は、訓民正音の創製動機や使用方法が紹介されており、価格をつけられない文化遺産と評価されている。実際、ベートーベンの「交響曲第9番」の自筆楽譜や日本の国宝『御堂関白記』と同じく、ユネスコ記憶遺産にも登録された。もちろん韓国の国宝(第70号)でもある。
「解例本」の出版日とされる10月9日は、現在の韓国で“ハングルの日”に指定されており、休日となっている。そんな木版本の「解例本」は、長らく世界に1冊しか残されていないとされ、現在も澗松美術館に保管されている。
しかし、2008年7月、古書籍商のペ氏が自宅を整理していると、新たな「訓民正音解例本」を発見。韓国文化財庁の調査員が確認してみると、国宝として保存されている「解例本」とまったく同一の版本で、むしろ保存状態はこちらのほうが良好だったという。
“だったという”と言葉を曖昧にしたのは、新たに見つかった「解例本」(便宜上「尚州本」と呼ぶ)が、広く世の中に公開されていないからだ。見つかった「尚州本」が偽物だったわけではない。その背景には、所有権をめぐる醜い裁判があった。
「尚州本」の発見からわずか1カ月後、ペ氏と同じ尚州市に住むチョ氏が本の所有権を主張。
チョ氏は「あの『解例本』は私が保管していたのに、ペ氏が盗んだ」として、刑事告訴と民事訴訟を起こした。刑事告訴は嫌疑なしで処理されたが、民事訴訟ではチョ氏の主張が認められた。「尚州本」の所有権はチョ氏に渡ったことになる。
しかし、ペ氏は本をどこかに隠してしまい、再三の捜査が行われたが結局、発見できずじまい。ペ氏は検察に拘束起訴され、最高裁まで争い、2014年6月に「盗んだ証拠がない」として無罪を勝ち取った。
その後もペ氏は「尚州本」を公開しなかった。民事訴訟で敗れており、この間に亡くなったチョ氏が本を国家に寄付する意向を伝えていたからだ。韓国メディアの質問に、ペ氏が答えている。
「裁判を何年も行い、心と体があまりに傷ついた。367日間も獄中で過ごし、家宅捜索も受けて被害が大きい。すべての真実が明らかになるまで、絶対に公開しない。今の段階で公開したら、所有権は誰のものになるというのだ。これは絶対の原則だ」
ちなみにペ氏は、最初の刑事告訴を乗り越えたところで、「尚州本」を100億ウォン(約10億円)で売却しようとして失敗している。最後の価格調整の段階で、破約となったようだ。
そんな状況下で起きたペ氏自宅の火災。どうやら最悪の事態である焼失は免れたもようだが、現在も所有権をめぐる裁判は続いているようだ。
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