韓国サッカー界のイケメンFWアン・ジョンファンが涙の引退会見で語っていたこと

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2002年ワールドカップの活躍などで一世を風靡したアン・ジョンファン。2012年1月31日に現役引退を表明しているが、その記者会見で彼はどんなことを語ったのか。その内容をプレイバックしたい。

以下、アン・ジョンファン引退記者会見の全文。

――悩んだ末の引退だが、どんな気持ちか?

「今日で“サッカー選手アン・ジョンファン”と呼ばれるのは最後だな、という心情。14年間のプロ生活を終え、新しい人生に挑戦するため会見を開いた。こうして集まっていただき、とても感謝している。

プロ選手としてサッカーシューズを履いてから、14年という歳月が過ぎた。1998年にKリーグへ入団し、2000年からはイタリアや日本、フランスを経て、様々なサッカーを経験することができた。人生において幸運な時間だった。素晴らしい経験だったと思う。

ワールドカップという大舞台に3回出場し、選手としてできることはすべて手にした。こうして選手生活を振り返ってみると思い出は多いが、2002年に韓国でワールドカップに出場し、皆で笑うことができたこと、期待してもらえたことが一番記憶に残っている。

まだプレーを続けたい気持ちがあったが、(去就について)かなり悩んだ。簡単に決断できることではなく、辛い1カ月だった。私を最後まで待っていてくださったシン・テヨン監督に感謝している。今まで指導してくださった代表チーム監督、プロチーム監督、すべての方に感謝したい。海外でプレーできるよう尽力してくださった先輩たち、現役選手として頑張っているイ・ドングッ、引退したコ・ジョンスとの1998年の思い出が忘れられない。

アン・ジョンファン

私は、神が与えてくれた幸運に恵まれたと思う。海外生活を支えてくれた妻には感謝しきれない。困難な時にあっても、いつも応援してくれたファンの皆さん、関心を寄せてくれたマスコミの皆さん…どんな言葉でも言い表せない。この気持ちは、死ぬまで私の子どもにも伝えていきたい。

選手としてはお別れでも、私はサッカーのおかげで多くのものを得てきた。どんな形でも、韓国サッカーの役に立てるよう努力していくつもりだ。愛する家族とファンの皆さん、愛を注いでくれたすべての方たちに、心からお礼の言葉を言いたい。

これからはごく平凡な一家の家長として、ひとりのサッカーファンに戻り、韓国サッカーを応援していくだろう。本当にありがとう」

記者会見で涙を流した理由

――話しながら涙が見えたが、その理由は?

「涙は流さないと思っていたが、自分でも知らないうちに流れていた。私の14年間の選手生活が映画のフィルムのように蘇ってきた。辛いことよりも、嬉しかったことが思い出された。喜びの涙でもあり、名残惜しい涙でもある」

――選手生活に対する心残りは?

「気持ちは2002年でも、今の身体は2012年だ。まだプレーできる状態だとは感じながらも、活躍しなければと思うと負担も大きく、なかなか決断できなかった。心残りの思いでいっそう涙が出た」

――引退後の計画があれば、韓国サッカーに寄与したいと言っていたが?

「当分の間は少し休もうと思う。今まで妻が私を支えてくれたので、これからは妻の化粧品事業などを手伝ってやりたい。また、韓国サッカーについてはユース育成に関わっていく計画もある。サッカーの発展には基盤が重要。ベースから支える役割がしたい」

――KFAから提案があった引退試合を辞退した理由は?

「引退試合をしたい気持ちはある。しかし今は韓国サッカーが過渡期にあり、個人的なことでそういう試合をしている時ではないと思う。ワールドカップ出場が決まってから、声をかけてもらえれば光栄だ。KFAと協議して決めることになるだろう」

――学生時代の苦労が、今どのように影響しているか?

「強い心を手に入れた。アン・ジョンファンという名前を知ってもらい、“アン・ジョンファン”を作るきっかけになった」

これからは妻の化粧品会社も手伝いたい

――記憶に残っている瞬間や、人物を挙げるとしたら?

「中学生の頃にボールボーイとして、初めてプロサッカーの競技場に足を運んだ。その時キム・チュソン先輩のサインをもらおうとしたら、サインはくれずに去ってしまった。憧れていた選手だったので、かなりの衝撃だった(笑)。自分もプロ選手になって、サインをする人になろうと思った」

――「指輪の帝王」というニックネームも有名だが、その指輪は今どこに? 夫人とはどんな話をしたか?

「今、その指輪は妻がネックレスにして持っている。昨日は早く寝ようとしたが、お互い横になったまま、何も話はできなかった。私も妻も心が痛み、妻は泣いて眠れなかったようだ」

――キム・ナミルがKリーグに復帰するが?

「私もそうしたかったが、自分にとって正しい選択かどうか悩んだ。惜しまれながら去るのがファンにとっても良いのでは、と考え決断した。大変な14年間だった。今が去るべき時だと思っている」

――いちばん辛かったことは?

「金銭的な誘惑があった時だ。チームを移籍するごとに誘惑が多かったが、その時がいちばん辛かった。別のリーグに行きたくても“なぜ移籍するんだ?”という鋭い視線も辛かった」

――夫人の化粧品事業に協力しているが、事業家としては?

「初めは大変だった。やったことのない仕事で慣れなかったが、経営を学びながら人生の勉強もしている。そちらも成功させていきたい」

――1998年トロイカ時代の選手ではイ・ドングッのみが現役でプレーしている。伝えたいことは?

「先輩として、ドングッの活躍がとても嬉しい。当時、私とコ・ジョンス、イ・ドングッが注目を浴びていた。ファンや国民の皆さんに感謝している。ドングッが最後までKリーグのために頑張っている姿を見ていきたい」

――2002年にブラックバーンへ移籍できなかった心情はどんなものだったか?

「契約のサインをして、飛行機のチケットまで購入したにもかかわらず、入団できなかった。あの時は辛かった。実現していたら人生が変わっていたかもしれない。今も当時の契約書を持っている。たまに見ることがあるが、人生を変えられたはずの1枚の紙。心が痛む」

――指導者になる予定は?
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「私は指導者になる器ではない。多くの監督のもとで指導を受けてきたが、大変な職務だ。大宇ロイヤルズ時代、困難な状況の中で亡くなったシン・ユンギ監督を見て、その難しさを知った」

――Kリーグから広報大使に選ばれた場合、応じるつもりは?

「いつでも協力したい。何をおいてでも、韓国サッカーに役立つ仕事をするつもりだ」

――韓国サッカーに大きな軌跡を残したが?

「良いことも、悪いこともあった。何かとお騒がせだったかもしれない(笑)。所属するチームがなく個人練習をしたこともある。軌跡を残したというよりも、多くの紆余曲折があったといえるだろう」

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