「憎たらしいが偉大すぎる」韓国が抱くイチローへの愛憎

このエントリーをはてなブックマークに追加

「マウンドから打者の構えを見ると、打てないコースがいくつか見えてくるものですが、イチローは内角低めも打ち返しそうだし、外に逃げていくボールにもバットを当ててヒットにしてしまいそうで、投げるべきところがまったく見当たらない。だからWBCでは“気の駆け引き”だけでは負けるなというのが、我々投手陣の合言葉でした。実力的にはイチローのほうが上なのだから、神経戦で彼を圧倒しようと」

その一策としてポン・ジュングンが試みたのが、プレーボールと同時にタイムを要求することだったという。

第1ラウンド1位・2位決定戦。先発したポン・ジュングンは、イチローが打席に入って御馴染みの構えを始めようとすると、タイムを宣告してマウンドを降り、主審に訴えている。

「観客席からのカメラフラッシュが眩しすぎて試合に集中できないと。もちろん、それをどうすることができないことはわかった上で、わざとクレームを付けたんです。イチローの間合いやリズムを狂わせたかったし、彼に近づくことでこちらが恐れていないことを見せつけてやりたかった。心理戦で優位に立つために、前日から考えていた僕なりの仕掛けでした」

この策が功をなしたのかポン・ジュングンはイチローにヒットを許さず、続く第2ラウンドでも3打数無安打に抑えて韓国勝利の立役者となり、「日本キラー」と呼ばれ一躍、有名人になる。だが、ポン・ジュングンは謙遜する。

「運が良かっただけだと思います。僕の球が走っていたわけでもなく、外角寄りにストレートとカーブを投げていたらイチローがそれを引っ掛けてくれた。彼も調子が上がらず、相当に困惑しているようでしたから」

忘れられないのは準決勝前日での出来事だという。日本と韓国のナインが同宿したサンディエゴのホテルのエレベーターで偶然、イチロー、阿部慎之介、川崎宗則らと乗り合わせた。日本の選手から冗談交じりで「もう韓国とは対戦したくない」と声をかけられ、ポン・ジュングンも「同感だ。日本戦はトゥーマッチ・ストレス」と返すと、イチローは苦笑いするだけだったという。

イチローを打ち取れなかった韓国の誤算

「互いに知らない仲でもなかったので、ぎこちなく心苦しい瞬間でした。ただ、今となってはあの苦笑いに油断してしまった気がする。3度目の先発となった決勝戦では、初回にカーブをセンター前に弾き返されましたから」

その決勝戦の延長10回。第1回大会以上に極度のスランプに苦しんでいたイチローは2死二、三塁からイム・チャンヨンから決勝タイムリーを放ち日本にWBC連覇をもたらすが、韓国では今でもときたま、あの打席のことが議論になる。

当時の捕手だったカン・ミンホが「ベンチからサインが出ていたが、それが“無理せず歩かせろ”という意味とはわからなかった。打たれたのは自分のせい」と明かしたことで、イム・チャンヨンが「いや、サインはなかった。すべて自分の責任」と初めて公の場で真実を語って話題になったこともある。

その一連のやりとりを踏まえた上で、キム・ヨンジュンはこう分析する。

「サインの有無はともかく、1球目からストレートで攻めたイム・チャンヨンのスピードは有効的でした。実際、イチローはファウルでカットするのが精一杯のようでしたから……。だからこそ8球目に変化球を選んだことが悔やまれます。バッテリーは自信がある球種で勝負したのでしょうが変化球では球威が落ちますし、イチローのように当ててくるバッターにはちょうど良いスピードだったはずです」

もっとも大事な場面で、イチローがもっとも打ちやすい球を投げてしまったバッテリー。サインの伝達ミスもさることながら、悔やみきれない誤算がそこにあったわけである。

韓国が抱くイチローへの愛憎とは・・・

ただ、ベンチで見守っていたポン・ジュングンは「ミンホのせいでもチャンヨン先輩の失投でもない」と2人を庇いつつ、しみじみとこう語る。

「究極的に言えば、野球はタイミングの戦いだと思うんですよ。WBCでもチャンヨン先輩がプレートを外したり、わざと間を置いて投げながら、イチローのタイミングを外し狂わそうとしましたが、それでもきっちり打ち返したイチローはやっぱりスゴい。WBCだけじゃありません。どんな投手を相手にしても、自分のタイミングで打てるからこそ、イチローがイチローたる所以だと思うんですよ。だから4000本安打も驚きません。むしろ40歳を過ぎてもコンスタントに結果を出している事実に、同じベテランとして勇気づけられます。彼は今でも僕の憧れであり、ヒーローですよ」

LGツインズで活躍するポン・ジュングンの背番号は51。それはイチローに憧れ高校時代から変わらず付けてきた背番号でもある。

自宅のリビングには、一時期プレーしたアトランタ・ブレーブス時代にイチローからプレゼントしてもらったサインボールが、今も飾ってある。そのボールを話の種にしながら、いつか息子にWBCの思い出話を伝えたいというポン・ジュングンの夢を聞いたとき、韓国人が抱くイチロー観の根底にあるものを感じずにはいられなかった。

憎たらしいが、偉大すぎて認めずにはいられない男。イチローを見つめる韓国の眼差しには、愛憎の感情が複雑に交錯している。

文=慎 武宏

※この原稿は『Number』836号に寄稿した記事に加筆・増補したものです。

前へ

4 / 4

次へ

RELATION関連記事

デイリーランキングRANKING

世論調査Public Opinion

注目リサーチFeatured Research