門倉氏は同日、自身がコラムニストを務める日本メディア『東京スポーツ』にコラムを掲載。2009~2010年に在籍したSK時代を振り返った。
2009年にSKに入団し、同年シーズンは8勝4敗を記録するも韓国シリーズ制覇に失敗したことを伝えた門倉氏。
「SKは巨人のように、勝つことが義務付けられたチームだった。それだけに2010年はチャンピオンになろうという気持ちが強かった。1月中旬からキャンプインし、若手と必死になって練習した。キャンプ期間中には3000球を超える投げ込みを行うなど、プロ野球人生のなかで最もハードな練習を行った」と伝えた。
迎えた2010年シーズン、門倉氏は14勝7敗と二桁勝利を達成し、自己最多勝利記録を更新した。さらにはSKの韓国シリーズ優勝にも大きく貢献し、KBO屈指の助っ人として名を馳せた。
その後、同年の日本シリーズ王者である千葉ロッテマリーンズとの「日韓クラブチャンピオンシップ」で門倉氏は先発登板するも、2.2回を投げて7被安打、2死球、3奪三振の2失点(自責点2)を記録。試合は0-3で敗れ、自身も敗戦投手となった。
それでもキャリアハイを達成し、チームの優勝にも貢献して最高のシーズンを送った門倉氏だが、再契約不可の通知を受けた。
門倉氏は当時を振り返り、「シーズンを終えて日本でのんびり休んでいたが、12月に球団から連絡があり、球団代表と日本であった。当然、契約更改の話だと思っていたが、代表から“我々は今季は契約しない”と告げられた」とし、「シーズン通してフル回転して14勝を挙げ、チームの優勝に貢献したから、当然契約更新をすると思っていた。それがまさかの戦力外通告で、SKでのプロ野球生活は突然終わりを迎えることになった」と残念な気持ちを明かしていた。
もっとも、SKは当時、左膝の状態が良くなかった門倉氏とこれ以上ともにできないと判断し、再契約不可と判断した。
ただ、明確な成果を出しても戦力外通告受けた門倉氏にとっては寂しさが大きかったようだ。
(記事提供=OSEN)