1948年から韓国で“弾劾対象”となった公職者は計37人、そのうち13人は現政権発足後という乱発ぶり…罷免は朴槿恵が唯一

2025年03月22日 社会 #時事ジャーナル
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韓国の最高権力者でさえ、その職から引きずり下ろすことができる手段がまさに弾劾制度だ。

【注目】韓国最大野党、ついに30回目の弾劾訴追案を発議

行政府の首長である現職大統領をけん制するための国会固有の権限であり、憲政史上3度目の大統領弾劾事件を迎えた3月22日現在、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の命運が重大な岐路に立たされている。

尹大統領を含む大統領3人の運命を、わずか20年余りの間に憲法裁判所が左右してきたのだ。大統領が任命した憲法裁判官が、国民によって選ばれた権力すら無効にできる権力機関となった様相といえる。

尹大統領の弾劾審判に対する最終決定を前に、大衆の関心が高まるなか、法曹関係者の説明や資料などを基に弾劾の歴史を振り返ってみた。

これまで計37人が弾劾対象に

70年余りにわたる韓国の憲政史において、公職者の弾劾案(重複提出を含む)は計50件が発議された。

1948年の制憲国会から2025年3月20日までを基準にすると、国会は1年6カ月に1回の割合で弾劾案を提出してきたことになる。一人の公職者に対して複数の弾劾案が提出された事例を除けば、37人が俎上に載せられた。

2022年5月に発足した尹錫悦政権では、23人が弾劾の標的となった。国会議員定数300人中3分の1以上である100人、多いときには150人(大統領の場合は定数の過半数)以上が集まり、大統領や国務総理、長官などに対する弾劾案を発議したという意味だ。

尹錫悦大統領
(写真=共同取材団)尹錫悦大統領

とはいえ、すべての弾劾案が国会を通過したわけではない。

大統領に対する弾劾案は国会議員定数の3分の2である200人、国務総理など他の公職者に対しては過半数である150人以上が賛成しなければ国会本会議を通過できない。このような「頭数」が満たされなかった事例、すなわち与野党の政治的思惑によって発議されたが廃棄、あるいは撤回されたケースも数多く存在した。

結果として、現政権の公職者13人を含め、歴代政権で弾劾案16件のみが本会議で可決され、憲法裁判所へ送られた。その最初の事例が第16代国会での故・盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の事件だ。

そもそも1948年7月17日に憲法が制定された当初は、弾劾の現実性は低いと予想されていた。「公職者、特に大統領を弾劾訴追して罷免することがまさか起こるだろうか」という雰囲気が支配的だったという。

それほどまでに、韓国において弾劾は、深刻な違憲・違法事由の発見、厳しい国会での発議・可決などの手続きを経なければならなかった。盧元大統領が憲法裁判所の審判にかけられた最初の事件の当事者となったとき、予想外の反応が起きた背景だ。

憲政史上初めて弾劾が認容された朴槿恵(パク・クネ)元大統領の事件もまた、数多くの論争に包まれていた。現時点では、朴元大統領だけが憲法裁判所で罷免された唯一の公職者として記録されている。

盧泰愚(ノ・テウ)政権時代である1988年に憲法裁判所が発足した当時、この機関に注目する視線はあまりなかった。憲法裁判所の前身である弾劾裁判所などには、現在のような憲法裁判官は存在していなかった。

1948年に制定された憲法第47条は「弾劾裁判所は副大統領が裁判長の職務を行い、大法院(最高裁)判事5人と国会議員5人が審判官となる。ただし、大統領と副大統領を審判する場合は大法院長が裁判長の職務を行う」と定めていた(李承晩政権の第1共和国時代には、韓国もアメリカのように大統領と副大統領制度を設けていた)。

別個に裁判官を設けるのではなく、行政・立法・司法の権力が弾劾制度を共同で運営していたかたちだ。これら審判官の3分の2以上が賛成しなければ、公職者が罷免されない仕組みだった。当時も、罷免されたからといって民事・刑事上の責任が免除されるわけではないという但し書きがあった。

現在の憲法裁判所と似た機構が登場したのは、1960年6月15日のこと。当時の改正案には、憲法裁判所が弾劾裁判などを担当するという内容が盛り込まれていた。これは第5次改正憲法(1962年12月26日)で消滅した。

代わりに弾劾審判委員会を設置することとした。弾劾審判委員会の委員長は大法院長が務め、委員は大法院判事3人と国会議員5人で構成された。6人以上の賛成という規定はこの時も適用された。

第4共和国の維新憲法では、弾劾審判委員会が憲法委員会(1972年12月27日)へと変更された。1987年10月29日の第9次改正の過程で、現在の憲法裁判所体制が完成した。

憲法裁判所はこれをもとに、1988年9月に正式に発足した。当時は裁判官9人のうち6人だけが常任で、3人は非常任だった。当時、国民の記憶の中に憲法裁判官の存在はほとんどなかった。1991年になって初めて非常任裁判官3人が常任に転換された。

憲法裁判所
(写真=共同取材団)憲法裁判所

このような憲政史以前の歴史にも、弾劾の痕跡は存在する。上海臨時政府時代のことだ。

故・李承晩(イ・スンマン)元大統領は、1919年4月10日に設立された臨時政府で国務総理に任命された。1919年6月には、大韓民国大統領の名義で各国の指導者に書簡を送ると同時に、アメリカ・ワシントンに駐米委員部を設置した。臨時政府の規定にない「大統領」という職名を使用したことに対して、内部で葛藤があったという。

しかし、立法府に相当する臨時政府の議政院は、1919年9月に李元大統領を臨時大統領に推戴。問題は、李元大統領の国際連盟による委任統治案が論争を呼び起こし、事態が悪化した点だ。事実上、アメリカによる委任統治という批判が強まった。

議政院は最終的に1925年3月11日、李元大統領を弾劾して職を剥奪した。

2022年5月の現政権発足後だけで13人も

60年の歳月が流れ、ユ・テフン大法院長が韓国憲政史上初めて弾劾対象となった。公安事件の被疑者に対する逮捕状を棄却するなど、軍事政権と異なる判断を下した裁判官に対する人事措置が発端だった。

ユ大法院長が政権のために報復的人事を行ったという趣旨である。ただしこれは国会で可決されなかった。

その後、12・12軍事クーデターの関係者に対する起訴猶予など「見逃し」処分、保守政党に不利な選挙違反捜査など、与野党それぞれの政治的思惑に基づいて検察総長に対する弾劾案が数回発議された。

第1~8回の弾劾案に名前が載った公職者が、すべて司法部あるいは準司法機関に所属していたという事実は偶然とはいえない。この時期から第20代国会までの間、弾劾案に名前が載った公職者は、国会ごとに最大でも4人にとどまった。

2020年に第21代国会が始まると、弾劾件数は急増した。第21代では13件、第22代では18件の弾劾案(重複提出を含む)が発議された。

立法府の標的となった公職者は、第21代で9人、第22代で17人と計26人だ。チュ・ミエ元法務部長官(第21代)を除く残りは、「共に民主党」などが提出した案だ。

「共に民主党」李在明代表
(写真=時事ジャーナル)「共に民主党」李在明代表

全体の発議案31件のうち、国会本会議を通過して憲法裁判所に送られたのは14件。2022年5月に現政権が発足した後、弾劾訴追された公職者はこのうち13人と集計された。

憲法裁判所はこれに関して、司法行政権の乱用疑惑に巻き込まれたイム・ソングン元判事に対しては「現職裁判官ではない」という理由で「却下」を決定し、残りの8件については重大な違憲・違法事由に該当しないとして「棄却」した。

「却下」は訴訟要件すら満たしていないために判断しないという意味であり、「棄却」は形式的な要件は満たしているものの、内容的に受け入れる価値がないことを意味する。「共に民主党」にとっては「9戦9敗」だ。

ただし、まだ結論が出ていない事件も存在する。12・3非常戒厳事態に関連する尹錫悦大統領、パク・ソンジェ法務部長官、チョ・ジホ警察庁長の弾劾審判だ。ハン・ドクス国務総理の弾劾審判は3月24日に言い渡される。

尹大統領(当時の検察総長)に批判的な勢力の告発を政界に唆した疑いを持たれているソン・ジュンソン検事の事件も、現在進行中だ。

(記事提供=時事ジャーナル)

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