ロシア派兵で揺れる北朝鮮の“内部”…悲惨な末路を迎えた「2度のクーデター」の試みとは

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北朝鮮がウクライナと戦争中のロシアに大規模な特殊部隊を派兵した。北朝鮮軍が創設されてから海外派兵は、今回が初めてだ。

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全世界が北朝鮮軍の派兵に神経を尖らせているが、北朝鮮内部も尋常ではない。韓国の国家情報院は、派兵の知らせが伝えられ、北朝鮮の住民や軍人が動揺していると伝えた。

北朝鮮当局は、軍の秘密漏洩を理由に将校に携帯電話の使用を禁じ、徴集部隊所属の兵士たちに口を閉ざすよう指示しているが、「なぜ他国のために犠牲を払うのか」と強制的な徴集に対し、心配する軍人たちが動揺しているということだ。

また北朝鮮は、派兵された軍人の家族には「訓練に行く」と嘘をつき、動揺を防ぐために継続的に移住や隔離措置を行っているとされている。北朝鮮が金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の暗殺の可能性を意識して警護レベルを引き上げた点からも、内部の雰囲気が尋常ではないことがわかる。

最近、金正恩が特殊部隊の訓練を視察した際、彼の周囲を完全武装した護衛が囲み、即座に射撃できるよう引き金に指をかけていたことも、こうした雰囲気を反映している。世界がロシアとウクライナに注目しているとき、北朝鮮内部で急変事態などの突発的な状況が発生する可能性もある。

北朝鮮軍
(画像=SPRAVDI画面キャプチャ)10月18日、ウクライナ政府の戦略コミュニケーション・情報安全保障センター(SPRAVDI)が北朝鮮軍と推定される軍人たちが並び、ロシアの補給物資を受け取っていると公開した映像

成功の可能性が高かったが虚しく終わる

これまで北朝鮮では、2度のクーデターの試みがあった。1992年のフルンゼ軍事大学出身の将校クーデター陰謀事件と、1995年の第6軍団クーデター陰謀事件が代表的だ。

旧ソ連時代の1918年、軍人であり革命家であるミハイル・ヴァシーリエヴィチ・フルンゼの名前を取った「ミハイル・フルンゼ軍事大学」が設立された。ここには東ヨーロッパの共産国家の将校たちが留学し、北朝鮮も抗日闘士の子供など出身成分の良いエリート将校を選抜して派遣した。

北朝鮮の留学生たちは、自然とソ連をはじめとする共産国家からの留学生たちと社会主義について議論する機会が多かった。最初は北朝鮮社会主義の優越性について語っていたが、「偶像化と個人崇拝に基づいた独裁国家」という批判を受ける。そのほか、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアなど東ヨーロッパの共産国家の崩壊過程を見て、「金日成(キム・イルソン)式社会主義」に疑問を持ち始めた。

1991年に金日成が金正日(キム・ジョンイル)を最高司令官に推戴すると、露骨な不満を表した。封建時代のように、子供に権力を世襲することに反感を抱いていたのである。

フルンゼの留学生たちは北朝鮮に戻った後、強い結束関係を築いた。定期的な集まりを持ちながら「インナーサークル」を形成し、勢力化していった。そして韓国の「ハナ会」のような軍内の秘密派閥となる。留学生の身分だったときに受けていた特権が消えるにつれ、待遇に対する不満も生まれた。

やがて共産主義の母国であるソ連が崩壊すると、金日成を日本の天皇のような象徴的存在として据え、強力な社会主義国家を建設しようと意思を固める。資本主義に対抗するには強力な軍隊を育成しなければならないと判断し、これを基盤に第2の韓国戦争を起こして韓国を赤化しようとしたのだ。

決起はフルンゼ出身の人民軍副参謀総長(上将)であるホン・ゲソンが主導した。彼は現在、北朝鮮のナンバー2となっているチェ・リョンヘ最高人民会議常任委員長の義兄であった。金日成の母方の親戚で人民武力部作戦局副局長を務めていたカン・ヨンファン、人民武力部作戦部次長兼戦闘訓練局長であるアン・ジョンホ、平壌(ピョンヤン)防衛司令部タンク師団長のキム・イルフン少将も参加した。フルンゼ出身の師団長5人も名を連ねた。

彼らは人民軍創軍60周年の行事が行われる1992年4月25日をDデーに定めた。閲兵式に動員された戦車で主席団にいる金日成と金正日を制圧した後、クーデター軍が軍と労働党などの権力機関を掌握する計画だった。

決行は着々と進んでいるように見えたが、予期せぬアクシデントが生じた。閲兵式の行事計画を確認していた金日成のいとこであり、人民武力部局長だったパク・キソが問題を提起してきたのだ。彼は人民武力部の行事に平壌防衛司令部の戦車が動員されるのは不自然であるとして反対し、これが受け入れられたため、第一次クーデターの試みは虚しく失敗に終わった。

フルンゼの留学生たちは地団駄を踏み、計画の全面的な修正が不可避となった。彼らは第二次決起の機会を狙った。

しかし時が経つにつれ機密が漏れ出し、ついに金正日の耳にまで入った。金正日は大いに怒り、軍内の防諜機関である人民軍保衛局に反動分子を摘発するよう命じた。保衛局長のウォン・ウンヒ(中将)はクーデター主導者たちを一カ所に集めるよう作戦を練った。

1993年2月8日、主犯のホン・ゲソンらに対して人民武力部8号棟の会議室に集まるよう、人民軍総参謀長名義の指示が下達された。表向きには重大な会議を行うというものだったが、これはウォン・ウンヒが仕掛けた罠であった。

会議が始まると、完全武装した保衛局員たちが会議場に入ってきた。ウォン・ウンヒは出席者の中で、クーデター計画に参加した幹部たちの名前を一人ずつ読み上げた。これを合図に保衛局員が近づき、勲章や肩章などを剥がして手錠をかけ、引き立てていった。

この日、クーデター主犯ら70人余りの指揮官が逮捕された。金正日の「根絶命令」に従って軍部だけでなく、権力機関、行政機関、モスクワの北朝鮮大使館など、フルンゼ留学生出身者はすべて調査を受けた。1985年まで5年にわたる調査の結果、指揮官や将校など約200人が銃殺された。

この事件以降、現在に至るまで、北朝鮮は海外に軍事留学生を派遣していない。

女性情報員により発覚し、関与者は処刑

1994年7月9日、金日成が急死し、長男の金正日が権力を継承する。フルンゼ事件の捜査が完全に終わっていない1995年、金正日指導体制に不満を抱いた軍部がクーデターを計画する。

今回のクーデターは、咸鏡北道を防衛する第6軍団によるものだ。清津(チョンジン)市・羅南(ラナム)区域に司令部を置く第6軍団は、所属する戦闘部隊として歩兵3個師団、砲兵1個師団、放射砲4個旅団を抱えていた。兵力の半分は直轄の部隊で、残りの半分は地方軍で補充されることになっていた。

北朝鮮の軍部は、最上層から末端まで軍の責任者、政治委員、保衛局が互いに監視し合う三重の監視網体制を備えている。軍団の指揮系統も同様だ。武力の統率権を掌握する軍団長、政治責任者である政治委員、軍団を監視する保衛部長が存在する。これらは三権分立が徹底しており、軍団を動かすには3人が合意しなければならない。

脱北者出身の『東亜日報』チュ・ソンハ記者が著した『ソウルで書く平壌の話』(原題)などを参考にすると、匿名の第6軍団の政治委員(中将)が金正日体制に反旗を翻し、体制転覆のためのクーデターを試みたとされる。政治委員は保衛部長の取り込みには成功したが、軍団長が同意するかどうかは確信が持てなかった。政治委員と保衛部長は1995年の旧正月に軍団長を訪ねた。

彼らは軍団長に慎重にクーデター計画を明かし、参加を要請したが、軍団長が拒否すると、あらかじめ準備していた毒を酒に入れて暗殺した。北朝鮮の労働新聞には「第6軍団長が長年の持病で死去した」という訃報が掲載された。この動きは、すでに北朝鮮の情報当局に把握されていた。

羅南区域・羅成洞を担当する国家安全保衛部(現国家保衛省)は、ある女性情報員から「第6軍団クーデター陰謀説」を入手した。報告を受けた羅南区域保衛部長は、この事実を上級機関である咸鏡北道保衛部長に報告し、反諜報部長に事実確認を指示した。

しかし反諜報部長は「第6軍団の政治部軍官が酒に酔って話した内容を報告したもの」と聞き、信憑性に疑問を抱く。軍団保衛部がクーデターの動きを捕らえられなかったことも、この疑念を補強した。反諜報部長は「情報は信憑性がない」との趣旨で報告した。しばらくしても、自分の報告に対する対応がなかったため、女性情報員は平壌の保衛局を直接訪ねた。この状況下で第6軍団長が急逝したため、異常事態と判断した保衛局長のウォン・ウンヒは、上部に直接報告を行った。

金正日は第6軍団長の代理として軍需総局長であったキム・ヨンチュン大将を派遣する。キム・ヨンチュンはウォン・ウンヒとともに内部調査を開始し、クーデター陰謀が実際に存在していたことも明らかにした。ここには政治委員を中心に傘下の大隊級指揮官までが参加し、咸鏡北道の軍党責任書記、行政職員、国家安全保衛部、社会安全部(人民保安省)副部長以上の幹部が多数関与していたと把握された。

このときから秘密裏の逮捕作戦が始まる。ウォン・ウンヒはフルンゼ事件時と同様に、会議を口実に政治委員などの主犯者を咸南・利原(リウォン)飛行場に集めた後、武装兵士が突入して逮捕した。

約10カ月にわたる内部調査の末に、核心的な関与者のみならず単なる関与者や彼らと親密に接していた行政幹部まで全員が逮捕された。積極的な関与者たちは苛烈な拷問を受けた後、処刑され、家族は政治犯収容所に送られた。その後、金正日は第6軍団を北朝鮮軍の編成から永久に削除し、「第9軍団」に改名した。

このクーデター陰謀事件を鎮圧したキム・ヨンチュンは、後に総参謀長に昇進した。フルンゼと第6軍団事件の捜査を担当した保衛局は、その功績を認められ、人民軍保衛司令部に格上げされ、ウォン・ウンヒは初代保衛司令官に任命され、上将を飛び越えて大将に昇進した。

このように北朝鮮で起きた2度のクーデターの試みはすべて失敗に終わり、主導者たちは銃殺という悲劇的な結末を迎えた。ただし、これらの事件の正確な真偽が確認されたことはない。北朝鮮専門家や脱北者の間でも見解や内容がそれぞれ異なるとされている。明らかなのは、北朝鮮軍部内に金氏体制とその世襲に反感を抱く勢力が存在していたという事実である。

北朝鮮でクーデターが成功する可能性は?

北朝鮮でクーデターが成功する確率は非常に低い。

まず軍を動かすには、該当部隊の指揮官と政治委員、保衛部長の同意が必要である。互いに牽制し監視している彼らが一致団結することは極めて困難だ。仮に意気投合したとしても、平壌へ進撃し、クーデターを成功させる可能性も希薄といえる。

北朝鮮の軍指揮体系は戦争ではなく、体制維持に合わせて設計されている。最高司令官である金正恩の下に総参謀部という指揮部があるが、指揮体系はそれぞれ異なる。

平壌市の外郭を守る第91首都防衛軍団(12個旅団、約6万人)は金正恩直属部隊である護衛司令部が指揮する。平壌市内は護衛司令部の兵力9万人が守っており、これには精鋭の装甲部隊や高射砲部隊が含まれ、装備や武装状態も優れている。これだけでなく、国家保衛省、人民保安省、労働赤衛隊などの部隊も独立して存在している。

とはいえ平壌が鉄壁の要塞であるわけではない。平壌内部から崩す方法もある。親衛部隊である護衛司令部などが反乱を起こし、金正恩をはじめ、北朝鮮政権の首脳部の身柄を確保すれば状況は変わる。

(記事提供=時事ジャーナル)

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