昨日のサッカーACL。川崎フロンターレの前に立ちはだかった蔚山現代を率いていたのは、ホン・ミョンボ監督だった。
韓国サッカー界の“永遠のキャプテン”とされるホン・ミョンボ。現役時代は1990年イタリア大会から2002年日韓大会まで4大会連続してワールドカップに出場し、キャプテンを務めた2002年W杯では韓国代表ベスト4進出に大きく貢献した彼は、Jリーグでもその名を轟かせた選手だった。
1997年にベルマーレ平塚(現・ベルマーレ湘南)に加入。1999年からは柏レイソルに移籍し、韓国人Jリーガー初のキャプテンを務め、Jリーグのベスト・イレブンにも選ばれている。
アメリカのロサンゼス・ギャラシーを最後に2004年に引退すると、そのまま韓国代表のコーチへ。2006年W杯に指導者として参加し、その後も韓国代表や韓国五輪代表のコーチを務め、2009年からは監督に。2009年U-20W杯では韓国をベスト8に導き、2012年ロンドン五輪では韓国サッカー初となる銅メダルにも輝いている。2014年ブラジルW杯でも韓国代表の采配を振った。
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そんなホン・ミョンボにはこれまで何度もインタビューを要請し、彼も快く応じてくれた。“永遠のキャプテン”は、常に韓国と日本のサッカーを冷静に見つめ、その課題と希望を語ってきたのだ。
特に彼が日本やJリーグの思い出について多く語ったことがあった。これから始めるのは、そんなホン・ミョンボの再録インタビューだ。
―指導者生活も、やりがいはありますか?
「選手時代とは違った面白みもあるが、難しいね。最初の頃はベンチで見守っていても、逆サイドで何が起きていることが把握できないほど、余裕がなかった(笑)。ただ、今はやっとベンチから戦況を見つめることにも馴れてきた。ベンチから試合を見渡す“目”は、格段に良くなったと思う」
―振り返れば、コーチへの転身は突然でした。2004年にMLSのLAギャラクシーで現役生活に終止符を打ったあと、2005年9月にディック・アドフォカード監督が韓国代表の指揮官に就任すると同時に、韓国代表コーチに任命された。ちょっと意外な、驚きの人事でした。
「私も予想していなかったことだよ。指導者経験ゼロで、しっかりとした教育も受けていないのにいきなり代表コーチだからね。それは自分の道理に反することでもあったが、ピム・ファーベック監督(当時コーチ)から強く打診されて引き受けることにした。ただ、自分としては外国人コーチングスタッフと選手たちをつなぐパイプ役に徹しようという意識であって、コーチという指導者的な立場で、選手たちに接することはなかった。
真に自分がコーチだと自覚するようになったのは、ドイツW杯以降。ピム監督のもとで改めて韓国代表と五輪代表のコーチングスタッフに加わってからだ。そこから指導者としてのキャリアが本格的に始まったと言えるだろうね」
―選手時代とコーチ、どちらが難しいですか?
「断然、指導者だね。選手時代は体調管理やプレーの質など、自分のことだけを考えていればよかったが、コーチは選手全体の状態をしっかり把握して、チームとして何かを作り上げ導いていかなければならない。それもさまざまな個性をまとめ上げねばならない対人作業なだけに、難しいよ。
ただ、そうした対人作業を通じて選手やチームが成長していく姿に立ち会えることが、この職業の醍醐味だと思う。それは現役時代には味わえなかった、サッカーの新しい魅力でもあるよね」
―しかし、人を教えるというのは難しい。ましてホン・コーチの場合は現役時代の実績が輝かしいだけに、選手たちも緊張するだろうし、ご自身も「こんなこともできないのか? なぜ理解できないんだ?」とストレスを溜めてしまうことはありませんか?
「それは絶対にないし、選手たちを命令調で指導することは、絶対にしないようにしている。私からすればたとえ簡単なことであっても、特に若い選手の前では見本を見せつけるようなマネもしない。それは若い選手たちを萎縮させ、挫折感と劣等感を植え付けてしまうことにもなりかねないからだ。
もちろん、ひとつのプレー例を示す場合はある。ただ、それはあくまでも参考例であって、選手たちには自分で考えてプレーするよう指導しているし、戦術なども選手本人が完全に理解するまで何度も話し合うようにしている」
―そうした指導方針は、現役時代の経験に基づくものですか?
「一部分ではそう言えるだろうね。韓国代表で多くの国際経験を積み、日本やアメリカでのプロ生活で感じたことは、自分で考える力の重要性だ。監督やコーチに言われるがままでは、サッカーロボットに過ぎないし、選手として大成するのも難しい。
一流選手はみな、自分で考え自分でアクションを起こす術を知っている。そうした“考える力”を喚起させる指導法の重要性を改めて実感したのは、アドフォカート監督やピム監督のもとでコーチという立場になってからだ。2人から学んだことは多いよ」
―具体的にはどのようなことでしょうか?
「コミュニケーションの重要性だ。アドフォカート監督とピム監督は、選手とコーチングスタッフ、またはコーチングスタッフ同士の意見交換の場をとても大切にする指導者だった。2人は毎日のようにミーティングを開いて、選手やチームの状態や出来を相互に確認し、今後のトレーニングやチーム強化の方向性について頻繁に意見を交わし合う。そうしたコミュニケーションを通じて、選手たちのレベルアップを促し、チームを構築していく。
そのアプローチはとても新鮮だったし、指導者として新米の私には大いに勉強になった。特に2年近く一緒に仕事をしたピムからは、コーチとして多くのことを学んだね。練習方法や雰囲気作り、選手たちへの効果的な説明方法など、彼は韓国サッカー界に多くのものを残してくれたし、私自身もコーチとして多くのことを彼から学んだ。それだけに、アジアカップ後にピム監督が韓国を去ることになったのは残念だった」
―その2007年アジアカップ3位決定戦では日本と対戦しましたが、当時の日本の印象は?
「アジアカップに限らず、伝統的に日本は中盤の構成力に優れている。まずはそこをしっかりと認識した上で対策を練ったが、過去の韓国がマンマークで日本の個を消すことに主眼を置いたのに対し、アジアカップでは違ったアプローチで日本の中盤に対処した」
―というと?
「とにかくアジアカップの日本はスペースを効果的に使った攻撃が際立っており、マンマークでは対処できないのは明らかだった。幸いなことに、韓国もピム監督の指導下でゾーン・ディフェンスをマスターしつつあったので、アジアカップではマンマークではなく、ゾーンで対処した。試合は韓国が少し押され気味だったが、退場者を出して数的不利になったにもかかわらず、失点を許さなかったことでも証明された通り、我々は日本の攻撃にしっかり対処できたと思う」
―アジアカップ時の日本はオシム監督のもと、“人とボールが動くサッカー”を浸透させつつある時期でした。
「そのキャッチフレーズは事前に聞いていたし、五輪代表同士の日韓戦でもやろうとしている方向性も伝わってきた。だからこそ、アジアカップでは選手たちに強調した。スペースに走る日本の選手を不必要に追いかけるなと。
その動きに釣られてしまうと、今度はそのスペースにほかの選手が侵入し、そこにボールが渡ればピンチを広げることになるので、あくまでも個々のゾーンを守って、できるかぎりサイドに追い込みパスコースを限定させ、ボールを奪取するよう指示した。マンツーマンで対処していたら、日本の動きとボール回しに翻弄されていただろうね」
―東アジア選手権などで再び日韓が対決しますが、勝敗のポイントはどこにあると?
「韓国も日本も監督が代わり、新しいスタイルを模索している段階なので、“これだ!”とは断言できないだろうが、過去の両国対決同様に、緊迫した攻防になるのは確かだろう。いずれにしても、日本は中盤での細かいパスのつなぎがうまく、常に安定した試合運びができることがストロングポイントだ。逆に韓国は中盤の構成力には課題があるが、爆発力を備えている。両国の長所がミックスされれば、理想的だと思うのだが(苦笑)」
―韓国は決定力不足が指摘されていますが、コーチとしてその原因はどこにあると思いますか?
「メディアはFWに原因があるように書くが、個人的にはラストパスにも原因があると思う。日本の場合、中盤からのスルーパスにしてもサイドからのクロスにしても精度が高いが、韓国のそれはFWとしても受けづらい場合が多々ある。要するにパスの質が落ちるということだ。
そうした繊細な部分、つまり技術力をもっと高めなければ、韓国サッカーの未来はないと思うし、五輪代表の選手たちにも一つひとつのプレーを、自ら考えて予測するよう強調している。そうした積み重ねがあってこそ、良いプレーが生まれるのだと。東アジア選手権では、五輪代表にとって先輩格にあたる韓国代表選手たちの質の高いプレーを期待したい」
―さて、五輪代表監督も兼任していたピム監督の韓国代表監督辞任に伴い、あなたにも辞任説や五輪代表監督説も流れましたが、新たなに五輪代表を任されたパク・ソンファ監督のもとでも、コーチとして残りました。その理由は?
「ピム監督が辞任した以上、本来ならば自分も責任をとって退かねばならないと思ったのは事実だ。個人的な感情で決められるのなら、私も潔く退いていただろう。ただ、その一方で五輪代表への愛着もあった。彼らが初めて招集されたときから指導してきたからね。
しかも、当時は北京五輪アジア最終予選が目前に迫っていた。新たなに五輪代表を任されたパク・ソンファ監督はチームを熟知している私を必要としてくれたし、私としてもチームへの愛着と責任ゆえに断るわけにはいかなかった。自分が韓国サッカーのためにできることに忠実であろうという思いからの決断だった」
―現在の韓国の若手の実力と可能性をどう見ていますか?
「技術があり、戦術理解度も高い選手が多いと思う。ただ、彼らには経験が足りない。その経験が足りないからこそ、好不調の波が激しく、苦しい状況に直面すると自力で打開できない場合がある。けれど、経験はこれからいくらでも積めるものだ。そして、その経験の積み重ねが選手たちを成長させ、チームを強くする。
アジア予選では終盤に苦戦したが、それを勝ち抜いたことでチームは成長したし、1月のスペイン合宿を通じてチームとしてのまとまりも高まった。北京五輪本番までに特別な強化日程が取れないのがもどかしいが、彼らが自分たちの実力を十分に発揮すれば、北京五輪でも良い成績が残せると信じている」
―日本五輪代表を率いる反町監督や井原コーチは、現役時代をともにした仲ですが、現在の日本サッカーの印象は?
「日本五輪代表とは親善試合で2回、練習試合で1回対戦したが、選手たちの能力は高く、チームとして目指す方向性も伝わってくる。たしかに“人とボールが動くサッカー”だよね。反町さんや井原さんには、韓国と同じく仲間として、互いに良い成績を残そうとエールを送りたい」
―日本のサッカーファンたちにメッセージがありますか? 日本での生活はどんな日々だったのでしょう?
「日本時代は選手として最高の日々だったと思う。もちろん、言葉や文化が異なるので日本の生活に適応するまでには苦労も多かったが、レイソルではタイトル獲得という最高の結果も得ることができた。苦労した分だけそれに見合う喜びも手にできたのだから、日本での日々は忘れられないよ」
―Jリーグ時代で忘れられない試合や思い出はありますか?
「柏レイソル時代の1999年に戦ったジュビロ磐田との対戦。当時の磐田はJ最強だったが、柏もまったく引けをとらなかった。特に忘れられないのは、ナビスコカップ準々決勝で終了間際に挙げた同点ゴールだ。絶対負けられない試合だったので、あのときの興奮は鮮明に覚えている。
そして、柏を離れるときにクラブが用意してくれたセレモニーだね。サポーターへの感謝の気持ちと名残惜しさが同居したあのときの出来事は、今もしっかりと心に刻まれている。柏は私が最も情熱を注いだクラブであり、今も愛着があるクラブだよ」
―今でもレイソルやJリーグの中継をチェックしていますか?
「ここ数年は視察が多く慌しいので昔ほどではないが、Jリーグの結果や近況はインターネットや知人を通じて知っている」
―恩師と慕う西野監督は、ガンバ大阪を常勝軍団にしてその評価を高めました。
「ここ数年じゃないだろ(笑)。西野監督はレイソル時代から有能な監督だったじゃないか。その後のガンバの強さも、西野監督なら当然のことだと思うよ」
―Jリーグ全体についてはどうでしょう。ACLでKリーグ勢は勝てなかった。
「浦和がACLを制覇したことでも示された通り、Jリーグは継続的かつ着実に発展していると思う。日本時代も感じたが、日本にはサッカーを体系的に発展成長させる基盤が整っている。たとえばサッカーそのものを楽しむ文化だ。サポーターたちも、たとえ応援するクラブが負けても激励を送るほど、クラブとサッカーに強い愛着を持っている。
それは、日本サッカー界全体がそうした環境作りを地道に取り組んできた成果だが、韓国ではまだまだ勝利至上主義が根強く、真にサッカーを楽しむ土壌が出来上がっていない。Kリーグも勝敗に固執しすぎてサッカーが面白くないから、スタンドは空席が目立ち、ファンやサポーターたちもクラブに愛着を持てずにいる。そうしたKリーグの問題点は早急に改善する必要があるだろうね。
それに、日本ではユース育成システムも整っている。そのシステムのもとで、次々と良い才能を輩出されているだろ? 日本サッカーはこの十数年で飛躍的な成長を遂げたが、今後もその発展路線は継続していくはずだ。そうした日本の取り組みと成長を韓国も参考にし、見習わなければならない部分は見習う必要があると思う」
―具体的にはどういう部分でしょうか?
「リーグや各クラブの運営やユース育成、指導者教育など、さまざまな分野で変化が必要だが、現場を預かるコーチとして感じるのは、悪い結果の原因を精神力や体力の欠如で片付けてしまうことだ。そうした安易な分析ではなく、戦術的な問題、選手の配置とポジショニングの反省点、さらにはチーム作りの段階でどこに課題があったのかなど、より詳しく具体的に分析する必要があると思う。精神力や体力ばかりを強調する時代に、そろそろ韓国もピリオドを打たなければならないと感じている」
―かつての盟友であるファン・ソンホン氏もKリーグで監督をしますね。
「とても素晴らしいことだよ。2002年W杯メンバーでは初のKリーグ監督だからね。1990年代中盤から2000年代にかけて代表選手として活躍したハ・ソッチュ先輩やチェ・ヨンスもKリーグ指導者を務めているが、監督はソノンが初めてだ。だからこそ、彼にかかる責任やプレッシャーも大きい。彼が成功するかしないかで、韓国サッカー界の未来も変わってくる。
というのも、韓国サッカー界は選手たちの世代交代もさることながら、指導者たちの世代交代も進めていかなければならない時期に来ている。世界的に見ても、クリンスマンやライカールトなど、私たちと同じ時代に現役を務めた元代表選手たちが指導者として頭角を現しているし、そうした30代後半から40代の指導者たちがサッカー界に変化をもたらしている。そういう意味では、韓国も若い指導者たちがどんどん表舞台で活躍していかなきゃと思う」
※このインタビューは2008年2月に行われました。
文=慎 武宏
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