韓国の首都ソウルには、戦後70年が過ぎた現在も、日本統治時代の歴史がありありと残されている。
例えば、ソウル市民や学生で賑わうソウル図書館。その建物は、もともとは首都行政を担ってきた「京城府庁舎」として使われていたものだ。「京城」とは、日本統治時代の1910年から1945年につけられたソウルの呼称。1926年に建築されて以来、90年が過ぎた現在も“現役”としてソウルの一部を成している。
その一方でソウル特別市では昨年、「光復(解放)70周年記念事業計画」として、1937年に建設された国税庁別館を撤去。もともとは朝鮮総督府逓信局庁舎として建てられた歴史建造物が、姿を消したことになる。
日本統治時代の遺構は、韓国にとって負の遺産か、それとも近代化の象徴か。写真とともに、“韓国近代史の生き証人”である5つの遺構を紹介しよう。
●ソウル図書館(京城府庁舎・1926年建築)
京城府庁舎として建設され、1946年からはソウル市庁舎としての役割を2008年まで、60年以上も果たしてきた建築物。現在は約30万冊の書籍を有するソウル図書館として、多くのソウル市民に親しまれている。
背後にあるのは、“津波のデザイン”と呼ばれる新ソウル市庁舎だ。ソウル図書館と新ソウル市庁舎は、つながっていることがわかる。
●新世界百貨店本店(三越京城店・1930年建築)
世界の高級ブランド店がずらりと入った、韓国で最も品格のある百貨店。そのルーツは、日本の三越百貨店だ。
設計者は三越建設事務所の林幸平氏。建設当時、周辺の建物の建築面積は100平方メートル未満のものが大半だった。三越京城店の建築面積は1400平方メートル。市民にとって衝撃と憧れの対象だったという。
●明洞芸術劇場(明治座・1934年建築)
日本人街であった明洞に「明治座」として開館。設計者は玉田橘治氏で、主に日本映画を上映する映画館として利用されたという。
当時の京城府内には数件しかなかった、観客定員数1000人を超える「1等級館」だったとされる。終戦後は「国際劇場」「市公館」「国立劇場」と名称を変えたが、1975年に一度閉館。2009年に現在の名称で復活し、演劇専門の公演場となっている。
●ソウル市立美術館(京城裁判所・1928年建築)
朝鮮最初の裁判所「漢城裁判所」があった場所に建設された建築物。朝鮮総督府の内務部建築課が担当し、岩井長三郎、笹慶一、岩槻善之氏らが設計したとされている。
終戦後、1995年までは韓国の最高裁判所として使われていた。正面の外壁や玄関は当時のまま保存されているが、それ以外はすべて新築されている。よって、建物を横から眺めると、張りぼて感がある。
●ウリィ銀行鐘路支店(広通館・1909年建築)
韓国で最も古い銀行店舗のひとつとして知られている。
大韓帝国末期の1909年に建設され、当時1階は大韓天一銀行と手形組合が使用。会議室や喫煙室が設置された2階部分は、日本の商工人たちの集会施設「広通館」として利用された。1914年2月に焼失したが、1915年に復旧したため、日本統治時代の建築物とされている。西洋的な外観が存在感を放つ。
今回紹介したソウル市内に現存する日本統治時代の遺構は、一部に過ぎない。それほどソウル市内には、日本統治時代の歴史がありありと残されているのだ。
(文=呉 承鎬)
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