日本の植民地時代である1930年代の大邱(テグ)市の情報が記録された資料『大邱案内』が韓国語に翻訳され、注目を集めている。
大邱市は2月10日、当時の人口、行政、産業などに関する総合的な情報が含まれる1934年版『大邱案内』の翻訳本を発表した。
『大邱案内』によると、大邱の人口は1906年に約1万2000人だったが、1933年には10万人以上に増加した。当時、大邱では短距離交通網が発達し、慶尚道一帯で自動車が運行されていたという。
また、大邱のリンゴは日本だけでなく、東南アジアやインドにも輸出され、大邱を代表する特産品として定着したと記録されている。
1930年代においても大邱は「朝鮮で最も暑い夏の都市」とされ、この暑さを和らげるため、1933年に「緑化協会」が設立され、大邱全域で常緑樹や観賞用樹木の植樹が始まった。
特に興味深いのは、選挙制度だ。当時は一定金額以上の税金を払っている者だけが有権者になれたため、大邱市の総有権者は4064人だった。
そのうち朝鮮人は1446人、残りの2618人は日本人だった。
また、1931年から限定的な自治制度が施行され、大邱府尹(現在の大邱市長)が議長を務める定員33人の府会(現在の市議会)が設置されたが、33人のうち朝鮮人はわずか8人にとどまっていたという。
日本人と朝鮮人の経済的・政治的な格差が浮き彫りになっている記録といえる。
この時期に建設された公会堂(現在の大邱コンサートハウス)、朝鮮殖産銀行大邱支店(現在の大邱近代歴史館)、大邱医学専門学校(現在の慶北大学医学部)、三中井百貨店(日本資本の百貨店)などは、日本人が自らの「近代」を大邱に定着させようとした痕跡といえる。
『大邱案内』は1905年から1934年までに計5回刊行され、そのうち1905年版と1918年版が2023年に翻訳・公開された。翻訳には嶺南(ヨンナム)大学日本語日本文学科のチェ・ボムスン教授が責任翻訳者として参加した。
今回翻訳された『大邱案内』は、当時の社会や産業、政治状況を詳しく知る貴重な資料であり、大邱の歴史を考察する上で重要な役割を果たすものとなるだろう。
(文=サーチコリアニュース編集部O)
■「私たちの先祖の国籍は日本だった」韓国長官が“問題発言”も…謝罪を拒否
前へ
次へ