小野、本山、金子聖司、稲本、高原、酒井といった面々たちが、盛り上げ役に徹するチョン・ヨンフンと中田浩二に連れられて、交流会に加わったのである。
本山とキム・ウンジュンは交換したユニホームに袖を通し、写真を撮った。2度戦ったことで、日韓の距離はグッと縮まっていた。後はお互いの質問攻めである。
「Jリーグで一番うまい選手は誰?」
「韓国には兵役があるの?」
「オレは3回韓国行ったことがあるよ」
「日本とは高校時代から交流戦やってるんだ」
両国の事情を話し合い、ときには笑い転げながら日韓サッカー比較談義に花を咲かせた。
「中田英寿とコ・ジョンスはどちらがうまいか?」「フランスW杯で日韓ともに勝利できなかった要因は何か」など、内容は多岐にわたり、2度の対戦を振り返りお互いの弱点についても意見を交換しあった。
いつしか話題は若者文化の流行や、韓国人の日本観と日本人の韓国観といった話まで及び、何人かの選手は電話番号を交換した。
ただ、楽しければ楽しいほど、時間は早く過ぎていく…。気が付くと時計は午前5時を回り、韓国選手がホテルを引き払って出発する時間が迫ってきていた。
そんななかで、誰かが突然言い出した。
「表彰式の関係で決勝戦の後に交換できなかったユニホームを、今ここで交換しよう!!」
この提案を受けて、皆がユニホームを交換しエールを交わした。
「今度は負けない」
「ワールドユースで会おう!」
「これからもよろしく」
「話ができてよかった」
言葉はさまざまだが、どの顔も満足感でいっぱいだった。90分間戦い、夜通しで語り明かしたのに、疲れた表情を見せる者は誰一人としていなかった。
ただ、ひとりだけ寂しそうな表情を浮かべていたのは韓国のソ・ガンスだった。
天才MFと言われ、サッカーを始めたころから韓国サッカー界のエリート街道を歩いてきた彼は、アジアユースで初めて挫折を味わっていた。予備メンバーとして、大会にはエントリーされなかったのである。
それでも腐ることなく、毎晩ランニングをしていたのだが、そのソ・ガンスだけはユニホームを交換できずにいた。韓国選手が10人以上いたのに対し、日本選手は8人しかいなかったからだ。
そんな彼の浮かない表情に気づいたのが、小野、小笠原、中田浩の3人だった。彼らはソ・ガンスを日本の選手が宿泊するフロアまで連れて行き待たせると、1枚の日本代表ユニホームを手にして戻り、それをソ・ガンスに手渡したのだ。
ソ・ガンスは言う。
「おそらく、ボクはワールドユースを戦うメンバーには選ばれない。だから、どうしても日本の選手とユニホームを交換したかったんだ。日本とはU-16でも対戦したけど、ユニホームを交換できなかったしたとえ予備メンバーでもアジアユースに参加して日本の選手と交流を持てた証がほしかったんだ。だから3人がボクのために走り回ってるのを見たとき、ホントにうれしかったよ!このユニホームを励みに2002年に向けてがんばりたい」
2002年。それは別れ際に日韓両国の選手が何度も口にした言葉だった。思い出すのはイ・ドングッの一言である。
「日韓ともに今回のユース代表で2002年のワールドカップを戦えたらいいなぁ。その日がくるまで互いに切磋琢磨し、そして4年後にも今回のように夜通しで語り合いたい!」
くしくもイ・ドングッの言葉と似たようなことを、小野伸二も口にしていた。
「あの夜のことは絶対に忘れない。これからも、あんな交流があればいい。韓国とはこれまで何度も対戦したけど、お互いに頑張って、アジアから世界に飛び出したい」
使う言葉も、育った環境も異なる2人が語った共通の未来。今までは宿命のライバルということだけに終始しがちだった日韓だが、ライバルであると同時に、最高のパートナーになろう。そういっているようだった。
あれから20年以上の歳月が過ぎようとしているが、今でも“チェンマイの夜”のことは忘れられない。あの夜の出来事こそが、今でも日韓サッカー報道に携わる私の原点になっている。
(文=慎 武宏)