今こそ知りたいレジェンド朴智星(パク・チソン)の知られざる「意外な原点」

2021年07月01日 スポーツ #サッカー
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Jリーグの京都サンガでプロとしてデビューし、オランダのPSVアイントホーフェン、イングランドの世界的名門マンチェスター・ユナイテッドでも活躍したパク・チソン。

韓国代表としても2002年日韓大会から3大会連続ワールドカップに出場し、3大会連続でゴールも決めている。2014年夏に現役を引退したが、今でも韓国はもちろん、日本でもその名を轟かすスーパースターだ。

だが、そのパク・チソンもかつては“失格”の烙印を押され、そのサッカー人生が終焉するかもしれない危機に立たされた時期があった。

高校卒業を控えた1998年秋のことだ。ユース代表やそこから漏れた者が選ばれる学生代表に選出された経験はなかったが、攻撃的MFとして決して名門校ではなかった水原(スウォン)工業高校を韓国高校サッカー界のメジャータイトルのひとつである大統領杯3位に導き、全国国民体育祭でも優勝。それなりの実績を残していたが、声をかけてくれる大学はひとつもなかった。

「残念だが、ウチには必要ではないよ」

首都圏の中堅大学はおろか、地方の無名大学ですら、手を上げてくれない。地元のKリーグ・クラブであった水原三星(スウォン・サムスン)の入団テストも受けたが、そこでも返って来る言葉は同じだった。

パク・チソン

「技術はあるが、体が細くて小さすぎる。残念だが、ウチには必要ではないよ」

大学もプロからもそっぽを向かれた挫折の日々。それがのちに韓国人初のプレミアリーガーとなる、当時17歳のパク・チソンに突きつけられた現実だった。

韓国の首都ソウルから南に40km離れた街、水原。市の中心部から車で10分ほど走ると、全長1.38㎞、幅35mの上下6車線の舗装道路にたどり着く。京畿道(=キョンギド/道は日本の県にあたる)が175億ウォン(約17億5000万円)、水原市が130億ウォン(約13億円)を投じて2005年6月に開通した「パク・チソン キル(道)」だ。

2002年W杯での活躍を讃えてその名が冠されることになった道路の脇には、無邪気にポーズをとる幼年期から、2005年5月のヨーロッパ・チャンピオンズリーグ準決勝での雄姿まで、パク・チソンの成長を辿った大きな写真パネルがいくつも飾られている。智星公園と名づけられた遊び場もあった。

そのパク・チソンキルから目と鼻の先にある高層アパートに、今も居を構える父パク・ソンジョンは懐かしそうに振り返る。

「チソンが生まれた当時の韓国の社会情勢は不安な時期でね。ウチの家計も苦しかったので、わが子誕生の喜びよりも、はたして無事に育てられるかという不安のほうが大きかった。それで妻と話し合い、この先どうなるかわからないから子供はチソンひとりにしようと決めた。人見知りが激しく、母の元を離れられない甘えん坊だったけど、おとなしく手の掛からない子だったよ」

パク・チソンが生まれる1年前、韓国では軍事政権の朴正熙大統領が暗殺されて粛軍クーデターが起き、全国に戒厳令が宣布されている。翌1980年には学生や市民が民主化を求めて軍部と衝突し、数多くの犠牲者を出した光州(クァンジュ)事件も起きた。のちに韓国は1988年に民主化を遂げるが、80年初頭の社会情勢は不安定で、庶民の経済事情も決して良くはなかった。

「練習について行けずに弱音を上げるのも時間の問題だと思っていた」

そんな時代だからこそ、革製品工場に勤めていた父は一粒種の息子が安定した公務員になってくれることを望み、人並み以上に厳しく躾けた。友人と野球に明け暮れ帰宅時間が遅くなった息子の顔を叩いたこともあった。

それだけに息子は父に従順だったが、小学3年生の冬、1枚の紙切れにサインをしてくれと迫ってきたときは驚いたという。

「翌年からチソンが通う小学校にサッカー部が創部されると聞いていたので、てっきり父兄に回覧された賛同書だと思いきや、入部登録書だった。近所の友達とよくサッカーをしていたことは知っていたが、本格的にやりたいと言い出すとは思わなかったので驚いたし、猛反対したよ」

ただ、それも無理はない。かつての日本同様に、韓国でも学校体育がサッカー選手への最初の入口だが、その形態は日本と大きく異なる。

日本の部活動は教育の一環として位置づけら門戸が広く開放されているが、韓国の部活動は少数精鋭のエリート主義。選手たちは小学生でも寮に入ることが多く、学生の本分である勉学もおかまいなしに朝から晩までサッカー漬けの毎日を送るのが一般的だった。

しかも、サッカーと学歴が密接な関係にあるため、指導者も勝利至上主義にこだわらねばならず、選手たちはスパルタ教育で鍛えられるのだから、苦労するのは明らかだった。

「でも、チソンは頑として譲らなかった。それで仕方なく、“自分で決めたことを自分から諦めるな”と約束して許可したが、内心では1年すれば飽きて放り出すと思っていたよ。練習について行けずに弱音を上げるのも時間の問題だと思っていた」

「足裏で最低3000回ボールタッチする練習を毎日していた」

ところが、シャイな一人っ子はサッカーにのめり込んでいく。通っていた小学校のサッカー部が1年で廃部になると、サッカー部がある小学校への転校を直訴し、小学6年の冬には前年度にイ・ドングッ、翌年度にはチェ・テウクが受賞した“チャ・ボムグン サッカー賞”にも輝いた。

「自分の息子ながら、ボール扱いがうまくて、動きにキレがあることに驚いた。聞けば、仲間たちが遊んでいるときも、ひとりで基本練習を反復していたらしい。足裏で最低3000回ボールタッチすればボール感覚が発達するとコーチに教わると、それを毎日繰り返したというんだ。息子がそこまで本気なのに、父親の私がバックアップしないわけにはいかない。それで工場に辞表を提出し、市内で精肉店を営むことにした。自営業なら、いつでも息子の試合に駆けつけられるからね」

韓国には“チマ・パラム”という言葉がある。直訳すると“スカートの風”となり、その父親版が“パジ・パラム(ズボンの風)”となるのだが、パク・ソンジョンは地元での試合にはかならず顔を出し、遠征になると店を妻に任せて息子を追いかけたというだから、その熱心ぶりには頭が下がる。

ただ、そのたびに痛感させられたのは、息子の体格の小ささでもあった。

「小学生時代はテクニックで相手をかわせたが、中学生になると当たり負けすることが多くなった。試合を観戦しているほかの父兄が“あんなチビを使っていては勝てない”と陰口するのを何度も耳にしたし、チソンも体格のことでかなり悩んでいたね。試合に負けて寮に戻ると、先輩のシゴキや嫌がらせ、鉄拳制裁もあったらしい。それでも黙って耐えるチソンが不憫で仕方なかった。それで体に良いという食材を全国から取り寄せて食べさせた。一番食わせたのは、昔から栄養食と知られていたカエルだよ。食用カエルを煮込んだスープをしょっちゅう飲ませた」

だが、なかなか身長は伸びず、ピッチ上でも目立たぬ存在になりつつあった。

「体が小さく可能性がないから見捨てられた。死刑宣告だ」

そんなパク・チソンの転機となったのが、水原工業高校時代だ。本人はソウルのサッカー名門校である天明(チョンミョン)高校への入学を志望だったが、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という父の説得で入学したサッカー新興校で、彼は今でも慕って頻繁に連絡を取り合う恩師に出会った。

イ・ハクジョン。1992年から1995年まで、当時JFLだったコスモ石油でプレーした元韓国代表だ。日本で現役を引退し、韓国に戻ってすぐに水原工業高校の監督になった彼は、パク・チソンの第一印象を今でもハッキリと覚えている。

「基本技術が正確でセンスがあり、吸収も早かった。ひとつ教えればすぐにマスターして、さらに応用できる子だったね。ただ、体は小さく風が吹けば飛んでしまうような細さでもあった。それで1年間は寮を出て自宅通学しながら、体作りに専念するよう指示した。自宅ならたくさん食べられるし、たっぷり睡眠も取れるからね。チソンと彼のアボジは、“体が小さく可能性がないから見捨てられた。死刑宣告だ”とかなり落ち込んでいたが、技術のベースがあっただけに、しっかりと体を作ったあとで戦術感覚や駆け引きを習得しても遅くはないと思った」

そして高校2年が終わる頃、監督の指示に従って体作りに励んだパク・チソンはレギュラーの座を掴み、飛躍的な成長を遂げる。「チソン館」と名づけられた寮の玄関口でかつてパク・チソンが走ったグラウンドを眺めながら、イ・ハクジョンは教えてくれた。

「あの当時は私もまだ若く、生徒たちと一緒にミニゲームや練習試合をすることが多かったのだが、チソンは図抜けてうまかったよ。パスやドリブルのタイミングが的確で、味方の動きもよく見えていたし、判断も正確だった。本人は私のプレーを真似ているだけだと謙遜していたが、サッカーの書籍や雑誌を読み漁って、相当に研究していたと思う。当時の彼が憧れた選手を知っているか? 意外かもしれないが、ブラジルのドゥンガなんだよ。華やかなプレーで目立つよりも、チームの勝利に貢献できる選手、チームに必要とされる選手になりたいというのが、あの頃のチソンの口癖だったね」

「ロッカールームで私はチソンら全員に平手打ちをした」

イ・ハクジョンが忘れられないのは、パク・チソンが高校3年生の春に挑んだ大統領杯での出来事だ。水原工業高校は大会ベスト8で、のちに韓国代表で活躍するイ・チョンス、チェ・テウクを擁する名門・富平(プピョン)高校と対戦。前半で2失点を喫したが、後半に追いつき最後はPK戦勝利を飾った。

「実はハーフタイムのロッカールームで、私はイレブン全員に平手打ちをしたんだ。力があるのに、相手を必要以上に怖れ弱腰になっている生徒たちが、もどかして渇を入れたのだが、私もさんざん殴られて育ったクチだから後味が悪く、相当に後悔したよ。そんな私に、チソンは何て言ったと思う? “監督の喝で目が覚めました”と言ったんだ。そのけなげな眼差しを見たとき、自責の念が沸いてくると同時に、この子たちを何としても上に上げると誓った。それで先輩や知人のツテを頼って売り込んだのだが、チソンの進路はなかなか決まらなかった」

パク・チソンに原因があったのではない。韓国サッカー界の既存価値観に原因があったとイ・ハクジョンは思っている。

「サッカー選手に必要なのはパワー、フィジカル、スピード。そんな固定観念が韓国にはあったし、今も残っている。その価値観に照らし合わせれば、170cm台のチソンは戦力にならない。失格だった」

「だから、僕は日本に行きたい」

そんな厳しい現実をパク・チソンはどう受け止めていたのか。父パク・ソンジョンは語る。

「文句も不満も言わず黙って練習を続けていたが、内心では相当に悔しかっただろうし、不安だったと思う。あるときなどは“アボジ、鶏肉料理屋も儲かるらしいよ”と、高校卒業後に働くことを匂わしたこともあった。私自身もコネや金がない以上、もはやチソンはサッカーを続けられないだろうと諦めていた。そんなときに突然の朗報が届いたんだよ」

連絡してきたのは、中堅の明知(ミョンチ)大学だった。ひとり欠員が出た特待生枠を埋めねばならないので、パク・チソンをスカウトしたいという。そして、そこからパク・チソンのサクセス・ストーリーが幕を開ける。

入学前の春休みに明知大学の合宿に参加したパク・チソンは、そのまま韓国五輪代表との練習試合に急遽駆り出され、当時の五輪代表監督だったホ・ジョンムにそのテクニックの高さと可能性を買われて18歳ながら五輪代表入り。1年後には京都パープルサンガからスカウトされた。大学卒業という学歴を得ることを願っていた父は日本行きを猛反対したが、息子は切実な口調でこう言ったという。

「アボジ、日本は学歴も体の大きさも問われない。実力さえあれば、それを正当に評価し認めてくれる国らしいんだ。だから、僕は日本に行きたい。Jリーグでプロになる」と――。

その後のパク・チソンについては周知の通りだが、彼の足跡を辿る取材を終えて改めて感じたのは、パク・チソンのたくましさだ。

少数精鋭のエリート教育と徹底した勝利至上主義。そして、パワー重視のサッカー観。力のない者は容赦なく切り捨てられていく過酷な生存競争の中で揉まれ、一度はそのエリート路線から弾かれながらも、くじけなかった。それどころか、韓国の常識をことごとく打ち壊している。

パワーよりもテクニック。学歴よりもプロ。そして、目指すは海外、世界のステージへ。大学もプロからも相手にされなかった韓国人初のプレミアリーガー、パク・チソン。

彼が国民から愛され支持される理由は、その挑戦を通じて韓国サッカー界に新しい価値観を示したことも、その理由のひとつなのかもしれない。

(文=慎 武宏)

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