人類のスポーツと平和の祭典とされるオリンピック。だが、日本と韓国にとっては互いのプライドを賭けたスポーツ戦争でもある。
例えば陸上競技の花形、マラソン。
韓国は、マラソンへの関心が非常に高い。日本統治時代に日本代表として1936年ベルリン五輪に出場し、金メダルに輝いた孫基禎(ソン・ギジョン)の走りが「苦難の象徴」とされ、小学校の教科書に記されているほどだ。
君原健治、瀬古利彦、中山竹通ら日本の名ランナーたちに強烈な対抗心をむき出しにし、マラソン日韓戦になると熱くなる。
とりわけ今も語り継がれる名勝負が、1992年バルセロナ五輪での森下広一とファン・ヨンジョのデッドヒートだ。
欧米の本命たちが次々と脱落していくなか、2人は激しい一騎打ちを展開。“心臓破りの丘”と呼ばれたモンジェイックの丘を過ぎても2人のペースは落ちず、互いにスパートのタイミングを牽制しあう壮絶なデッドヒートとなった。
そして40キロ地点手前の下り坂で、ファン・ヨンジョが一気にスパート。森下はそれに付いていけず、ゴールのテープを最初に切ったのはファン・ヨンジョだった。
くしくもその日は1992年8月9日。孫がベルリン五輪で金メダルを獲得した同じ日だったこともあり、日韓マラソン界は両国の宿命じみた関係を実感せずにはいられなかったという。
ちなみにファン・ヨンジョはその後、韓国マラソン代表監督を務めるなど指導者となり、現在は国民体育振興公団のマラソン部監督を務めている。森下広一も現在は、トヨタ自動車九州陸上部監督として後進の指導にあたっている。
日本のお家芸である柔道でも、日韓は激しく火花を散らしている。
初対決は1964年東京五輪・中量級の岡野功とキム・ウィテ。準決勝で対決し、勝った岡野が金、負けたキム・ウィテが銅に終わった。
もっとも、1988年ソウル五輪では韓国が地元開催ということもあって、金2、銀2の大健闘。柔道メダル獲得数で初めて日本を超えた。
因縁めいた対決として記憶されているのは、1988年ソウル五輪・95キロ超級準決勝で対決した斎藤仁とチョ・ヨンチョルの一戦だ。
決戦前、日本柔道界はまだひとつも金メダルを取れていないピンチに瀕していた。
しかも、斎藤の相手は宿敵チョ・ヨンチョル。実は2人は1985年ソウル世界選手権決勝でも対戦し、そのときはチョ・ヨンチョルの反則スレスレの関節技で斎藤が左ひじを脱臼し棄権敗退。以来、斎藤は幾度となくケガに悩まされが、それでも不屈の精神で乗り切り、なんとかたどり着いたオリンピックだった。
そのオリンピックの舞台で再び対峙したチョ・ヨンチョルに、斎藤は怯むどころか積極的に攻め続けて見事雪辱を果たし、決勝でも勝利して日本男子のソウル五輪唯一の金メダルに輝いて本家の威厳を保った(チョ・ヨンチョルは銅メダルに終わった)。
「僕は一度死んだ人間。みんなに助けてもらって生き返ったゾンビのようなもの。だからこのメダルはみんなのものです」
表彰台で大粒の涙を流したあとでそう語った斎藤は、それから20年後の2008年北京五輪。今度は日本代表監督として五輪の舞台に戻り、その弟子・石井慧も無差別級で金メダルに輝き、石井は言い放つのだった。
「オリンピックのプレッシャーなんて斎藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりませんよ」と。
ちなみに柔道で記憶に新しいところでは、2012年ロンドン五輪の男子66キロ級準決勝だろう。
海老沼匡とチョ・ジュンホの対決は、判定が覆って海老沼の勝利。その是非をめぐって、日韓のネット上で大論争となった。
そのロンドン五輪では、女子バレーボールと男子サッカーの3位決定戦で日韓が対決している。
女子バレーでは日本が勝利したが、男子サッカーでは韓国に軍配。しかも、勝利した韓国のMFパク・ジョンウが、「独島(竹島の韓国呼称)はわが領土」とハングルで書かれたボードを掲げて世界的な問題となった。
IOCは政治的な宣伝活動を禁じており、パクのメダル剥奪も当然かと思われたが、IOCは厳重警告。日韓の間にしこりを残す結果になった。
はたして今回の東京五輪では日韓の前にどんなドラマが待ち受けているだろうか。因縁や遺恨ではない、“名勝負”が生まれることを期待したい。
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