東京五輪でも実現か!!宿命と因縁の日韓野球激闘史

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日韓対決と言えばサッカーを連想する人が多いだろうが、最近は野球でも互いに譲らない白熱した勝負を繰り広げている。

例えば2015年11月に行われた「第1回プレミア12」。日韓は決勝戦で対決し、最後は韓国が9回に逆転する劇的勝利で初代王者になった。

韓国にとっては奇跡、日本にとっては悪夢に終わった「プレミア12」だったわけだが、両国が野球でこれほどまでのライバル関係になったキッカケはいつからだろうか。 

人によってその答えはさまざまだろうが、2006年から始まったWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が大きいのではないだろうか。

特に2009年の第2回大会は壮絶だった。何しろ日韓は計5回も対戦したのである。その戦いはまさに激闘に次ぐ激闘の連続だった。

東京での第1ラウンド第1戦では日本が韓国に14‐2の7回コールド勝ち。続く第1ラウンド1・2位決定戦では韓国が1-0の完封勝ち。韓国はアメリカに場所を移して行われた第2ラウンドでも、日本を4-1で下して一足先に準決勝進出を決めたが、第2ラウンド1・2位決定戦では6-2で日本が雪辱するなど、まさに一進一退の攻防だった。

(写真=SPORTS KOREA)2006年WBCで日本キラーと言われたポン・ジュングン

そして迎えた決勝前、日本代表の原監督が「世紀の対決になるだろう」と語れば、韓国代表のキム・インシク監督も「偉大な挑戦になる」と発言。

両監督の言葉通り、総力戦の様相を呈した決勝戦は延長までもつれる壮絶な戦いとなり、最後はイム・チャンヨンのストレートをセンター前にはじき返したイチローのバットで決着がついたが、AP通信は両国の関係をこう評した。

「日本と韓国の戦いはアジア版“ニューヨーク・ヤンキース対ボストン・レッドソックス”だ」

だが、実は両国の野球対決が実力伯仲の間柄となったのはここ10年ぐらいのことでもある。

2000年シドニー五輪以前のオリンピック対戦成績を見ても、その事実がわかる。

日本の8勝1敗。公開競技だった1984年ロス五輪では韓国4位に対し、広沢克己(明治大)らを擁した日本は金メダルに輝いた。1988年ソウル五輪・準決勝ではリリーフに回った野茂英雄(新日鉄堺)の好投で日本が3-1で勝利。1996年アトランタ五輪では井口資仁(青学大)や松中信彦(新日鉄君津)のバットで韓国投手陣を打ち崩し、14‐4の7回コールドで圧勝しているのだ。

「日本に追いつき、追い越せ」が韓国球界のテーマ

国際野球連盟が主催するIBAFワールドカップでも日本優位は変わらなかった。

参考までに大韓野球協会の集計を調べてみると、1980年の第26回から1998年の第33回大会まで日韓は45回対戦しているが、結果は韓国の14勝31敗。圧倒的に日本に分があったのだ。

それゆえに韓国では、「サッカーはともかく、野球は日本のほうが上。日本に学ばなければならない」(韓国球界関係者)との暗黙の認識があったほどだという。

その一方で、国民が抱く対日感情を無視できない現実。1936年にプロ野球が発足した日本よりも46年遅れた1982年にプロ野球が発足した韓国にとって、「日本に追いつき、追い越せ」が球界全体のテーマでもあった。

だが、プロ選手の参加が解禁となる1998年アジア大会以降、両国の力関係は縮まり、互角の勝負を繰り広げるようになる。

最初の激闘は2000年シドニー五輪だ。中村紀洋らプロ8人と杉浦正則らアマ16人が混在する合同チームで挑んだ日本は、国内リーグを一時休止してオール・プロで大会に挑んだ韓国にまさかの2連敗。それも予選リーグ、3位決定戦ともエース松坂大輔が先発力投しての敗戦だった。

オリンピックでの日韓野球激闘史

当時、西武ライオンズの怪物ルーキーとして大活躍していた松坂だが、予選リーグの韓国戦ではイ・スンヨプに本塁打を浴びるなどして9回5失点。それでも田口壮一のタイムリーなどで追いついた日本だが、延長10回に飛び出した松中信彦と中村紀洋のエラーで勝ち越しを許し、五輪初の韓国戦黒星を喫する。

それどころか3位決定戦では日本打線がク・デソン(元オリックス)の左腕の前に苦戦し、自己最速タイの156キロをマークするなど毎回奪三振で調子の良かった松坂も、8回途中にまたもやイ・スンヨプに痛恨のタイムリーを打たれ、1-3の敗北。「初のプロ参加で屈辱の4位」(共同通信社)という結果に涙を飲んだ。

一方の韓国はオリンピック初の銅メダルを獲得しながら、チームを率いたキム・ウンリョン監督が「銅メダルよりも、日本に2度勝てたことがうれしい」と語るほど、日本戦勝利の喜びを強調。前出したとおり、韓国球界は日本を打ち負かす“克日”をテーマとしてきただけに、五輪という大舞台でそれを達成したことに感慨深さを隠せなかった。

そして、このシドニー五輪から6年後に行われた第1回WBCで、両国の間にひとつの因縁が生まれる。

日本はイチロー、韓国はパク・チャンホなど、両国ともにメジャーリーガーを加えての真剣勝負。そのイチローが大会前に発した発言が韓国で思わぬ波紋を呼んだのだ。

「戦う相手が“向こう30年は日本に手は出せないな”と思わせる感じで勝ちたい」

新たな因縁の始まりとなったイチロー発言

特定の国を言及したものではなかったにもかかわらず、その発言を自国に向けたものと見なした韓国のメディアとファンたちはイチローに反感を抱き、選手たちも日本に対抗心を燃えたぎらせて発奮した。

1次リーグではイ・スンヨプの本塁打で韓国が3-2で勝利し、アメリカ・ラウンドでは8回表に元中日のイ・ジョンボムが藤川のストレートを左中間に跳ね返して2-1で2連勝を飾った。

その喜びのあまり、マウンドに太極旗を突き立てる挑発じみたパフォーマンスを見せた韓国ナインを尻目に、あのイチローが「野球人生最大の屈辱」と露骨に悔しさをあらわにしたほどだった。

だが、同じ相手に3連敗するほど日本野球は落ちぶれてはいなかった。大会3度目の対決となった準決勝で見事にリベンジ。福留孝介、多村の本塁打と上原浩司の好投で日本は韓国相手に6‐0の快勝を収め、その勢いのまま決勝ではキューバを下して第1回大会王者となった。

韓国メディアは「ウリナラ(わが国)に2連敗した日本が優勝した」と皮肉ったが、ここ一番の勝負どころで強さを発揮したのが日本だった。

実際、翌2007年11月に行われた北京五輪アジア地区予選でも勝ったのは、星野仙一監督が率いた日本だった。韓国を4-3で下した日本は北京直行を決め、韓国は世界最終予選を勝ち抜いて、ようやく北京五輪への出場切符を手に入れた。だが、その北京五輪で両者の明暗がクッキリと分かれた。

「金メダル以外はいらない」と豪語して臨んだ星野ジャパンはまさかの4位で終わり、若手中心のメンバーで挑んだ韓国は、日本はもろちんのこと、アメリカ、キューバをも下す7戦全勝の快進撃で金メダル獲得。今度は韓国が世界の頂点に立ったのである。

星野ジャパンの苦い敗戦の記憶

日本にとって歯がゆかったのは、予選リーグと準決勝で韓国に喫した2度の敗戦だろう。

予選リーグ、日本は先に2点を先制するも、のちにソフトバンクでも活躍するイ・デホに一発を浴び、5-3で敗北。準決勝では左腕キム・グァンヒョンのスライダーを打線が攻略できず、7回裏にはG・G佐藤の失策からピンチを広げてしまい、藤川球児が同点タイムリーを許してしまう始末。そして8回裏、岩瀬がイ・スンヨプに勝ち越し2ランを打たれてジ・エンドだった。

最後のバッターとなった阿部慎之介のライトフライを祈るようにしてキャッチした韓国右翼手の姿を目の当たりにした宮本慎也は、「認めたくないけど、勝ちたいという気持ちは韓国のほうが強かった」と語ったが、北京五輪での日韓戦は日本の完敗だった。

ただ、だからこそ日本にとっては韓国を下して得たWBC連覇の意義は大きかった。とりわけ延長までもつれ込んだ決勝での劇的な勝利は、日本野球の意地とプライドを示した会心の勝利とも言えたが、今振り返ってみると日韓野球激闘史がますます激化していくことを暗示させる大会でもあった。

ほかならぬライバル韓国が言っていた。

「1991年に韓国と日本の間には50年の差があると言ったことがあるが、今は10年ぐらいに縮まったと思う」とは、かつて日本を目標にしてきた世代であるキム・インシク監督の言葉だ。

北京五輪や今回のWBCの主力だった20代の選手たちも「球界全体のレベルは日本のほうが優れているが、代表クラスの対決では韓国も負けないことがここ数年の対戦で証明されている。いつかかならず雪辱を晴らしたい」と、日本へのライバル心をより一層燃やしていたのである。

つまり、冒頭で紹介した『プレミア12』の初優勝は、韓国にとってライバル日本に雪辱を晴らすことができた好機になったのだ。

おそらく韓国球界は、今後も日本球界に剥き出しの対抗心を燃やしてくるだろう。韓国の執拗なまでの対抗心にうとましさを感じる日本ファンもいるだろうが、すぐ隣に絶対に負けたくないライバルがいることは尊い。

切磋琢磨できるライバルとの激闘は、日本球界のさらなる発展にもつながるだろう。日韓野球激闘史が面白くなるのは、まさにこれからなのかもしれない。

(文=慎 武宏)

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