この事件の被害者は誰なのか。少年は加害者であり被害者でもあり、亡くなった母親は被害者であり加害者でもあった。
2011年11月22日、チ氏(53)はソウル広津区の家を訪れた。妻のパク氏(51)と別居中だった彼は協議離婚を進めるなか、妻と連絡が取れず、家を訪ねたのだった。
ところが妻パク氏と暮らしていた高校生の息子チ君(18)が、どうしても父親が家に入るのを拒んだ。なかに入ると、強烈な悪臭が鼻をついた。
寝室のドアの隙間には工業用接着剤が塗られていた。チ氏が「このなかにお母さんがいるのか?」と尋ねると、息子はうなずいた。チ氏は尋常ではないと判断し、警察に通報した。
しばらくして警察が到着すると、チ君は玄関でうずくまり、体を震わせ始めた。警察がドアを開けた瞬間、チ君は父親にしがみついて「お父さん、何があっても僕を捨てないよね?」とすすり泣いた。
寝室からは中年女性の遺体が発見された。チ氏の妻であり、チ君の母親であるパク氏だった。ミイラ化がかなり進んでおり、死亡してから数カ月は経っていると見られた。特に顔や首の部分は腐敗が激しく、原型を留めていなかった。
寝室をはじめ、家の中はまるでゴミ屋敷のようだった。こんな場所で人が生活していたとは信じがたいほど散らかっていた。
警察はチ君を尊属殺人容疑で緊急逮捕し、警察署へ連行した。チ君は警察で、母親を殺害したことを打ち明け、「当時は正気ではなかった」と供述した。
犯行の時点は3月13日だった。つまり、チ君はおよそ8カ月もの間、母親の遺体と共に家で暮らしていたことになる。事件が報道されると、韓国に衝撃が走った。一体なぜ、チ君は母親を殺害するという大逆の罪を犯したのか。
殺されたパク氏は中学3年のときに母を亡くし、父子家庭で育った。頭も良く、勉強もできたが、父親は息子だけをかわいがった。娘であるパク氏はいつも後回しにされ、無視され、虐げられ、愛されも認められもしなかった。
彼女は独力で高校を卒業し、ソウルにある大学の日本語学科を出た。社会人となり、チ氏と出会って家庭を築き、チ君をもうけた。パク氏は結婚後、実家の家族との交流はほとんどなく、親しい友人や知人も少なかった。彼女が頼れるのは夫と息子だけだった。
しかしチ氏との結婚生活は平坦ではなかった。パク氏は愛情の欠如やこれまで無視されてきた人生の恨みを、夫が埋めてくれることを望んだが、現実はそうならなかった。パク氏は極端な性向を示し、奇行を繰り返すようになり、夫婦間の不和が続いた。
経済的に苦しいなかでも、他人に軽く見られたくないという理由で高級車を購入し、数カ月後に損をして売却したこともあった。
チ氏は次第にそんな妻と距離を置き、外で過ごすようになり、5年前の2006年からは別居に入った。別の女性と生活を始め、パク氏との連絡も絶ち、月に120万ウォン(約12万3000円)程度の生活費だけを送金していた。
パク氏はチ君が小学生の頃から、学業に対して異常な執着を見せた。1日24時間を分単位で管理し、自ら手取り足取り教え、塾にも通わせず夜明けまで勉強させた。
もし居眠りをしたり、学習目標を達成できなかったりすると、容赦なく暴力を振るった。太ももや尻があざだらけになるまで殴られた。学校に10分でも遅刻すると、その日は大騒ぎになった。
チ君は小学6年生の時点でTOEICスコアが900点を超えていたが、パク氏は満足しなかった。むしろ、もっと取れるはずなのに取れなかったといって、寝かせず、食事も与えずに体罰を加えた。
3部屋ある集合住宅のうち、自分専用の部屋を与えられることはなく、リビングに机を置くか寝室で母親と一緒に寝起きしながら、一挙手一投足を監視された。
夫が家を出た後は、息子の成績に対して病的なまでに執着した。息子を成功させて、これまで受けられなかった見返りを一気に取り戻したいという欲望が強かった。「ソウル大法学部」への進学が絶対条件だとして、「全国1位」を求め続けた。
チ君は中学1年の全国模試で4000位以内に入った。中学1年で学年2位を取ったときも、それに満足したからといって叱られ、殴られた。次の試験で1位を取れば母親は喜ぶと思ったが、「全国に中学校が5000校あるのに、5000位で満足するのか」と言われ、また叱られた。
チ君は常に学年1位・2位を争う優秀な成績だったが、パク氏はそれでも満足せず、常に体罰を加えた。無慈悲な体罰と抑圧を統制手段として用いた。体罰の道具には野球バット、木製の棒、ゴルフクラブなどを使った。外に悲鳴が漏れないよう、口にタオルを咥えさせた。ズボンに血がつくと洗濯が面倒だという理由で、体罰専用のズボンまで用意させた。
チ君は、尻から出た血を止めるためにタオルを下着に挟んで登校することが多かった。こうした事実を先生には言えなかった。母親に知られれば、さらにひどい体罰が返ってくるのが怖かったからだ。
高校2年のとき、チ君のパソコンからアダルト動画が見つかると、パク氏はすぐに学校へ駆けつけた。教師やクラスメートが見ている前で、授業中だった息子の頬を叫びながら平手打ちした。
高校生になってから、チ君の成績は下り坂をたどり始めた。内申や模試の点数が下がるにつれ、母親の体罰が恐ろしくなり、自分は殺されるかもしれないと思うようになった。
チ君は生き延びるために成績を偽った。母親の期待に応えるように順位を操作して修正し始めた。それでもパク氏は満足せず、入試が近づくと体罰の強度と頻度はさらに増していった。
事件の3日前からは食事を与えず絶食させ、眠ることすら許さなかった。うたた寝をすれば、ゴルフクラブで一晩中殴られた。
犯行当日の3月13日、日曜日の朝、チ君は焦燥感と不安に襲われた。翌日、学校で保護者総会が予定されており、母親が参加すれば、自分が成績表を偽造したことが明らかになるのは時間の問題だった。そうなれば、激怒した母親に殺されると確信した。
チ君は「自分と母、どちらかが死ななければ終わらない」と思った。午前11時頃、チ君は台所から刃物を手に取り、寝室のドアを開けた。前の晩に息子を体罰した疲れからか、母親は昼寝をしていた。
チ君は「ごめん」と言いながら、顔と首に向けて刃物を振り下ろした。こうしてチ君は母親を殺害するという大逆の罪を犯した。
チ君は母親の遺体を寝室にそのまま放置した。遺体が腐敗して臭いを放つようになると、工業用接着剤でドアの隙間を塞いだ。彼は普段と変わらないように振る舞ったが、犯行が露見するのではという不安から逃れられなかった。
誰かに母親の所在を尋ねられると「家出した」と言い、父親には「海外旅行に行った」と言い訳した。
夜になると、母親を殺した瞬間の記憶が繰り返される悪夢に悩まされた。怖くて寝るときも電気を消せなかった。オンラインゲームに没頭して時間を過ごした。父親から送られてきた生活費でサバイバルゲーム用の銃やナイフを購入した。
家ではドアに向かってBB弾を撃ったり、ナイフを投げたりしていた。事件後、部屋の片付けをまったくしなかったため、家はもはや住居なのかゴミ捨て場なのか判別がつかないほどだった。
友人を家に招き、ラーメンを作って食べたりもした。このとき来た友人は「家の中が臭ったが、あまりにも汚かったので不思議には思わなかった」と語った。孤独と恐怖を振り払うため、同じ学校の同級生と付き合い始めた。自転車に彼女を乗せて一緒に登校し、下校時も送っていった。
一方で、彼女が自分から離れるのが怖くて、母親と同じように極端な執着を見せることもあった。
生きる意欲を失ったチ君は、勉強から完全に手を引き、成績は急降下した。無断欠席が増え、1学期の中間試験も受けなかった。大学入試にも興味を示さず、受験票も受け取りに行かなかったため、学校は母親に連絡したがつながらず、父親に電話した。
父親から「なぜ受験票を取りに行かなかったのか」と叱責され、仕方なく試験を受けた。
そして8カ月が経った。離婚訴訟を進めていた父親が、妻と連絡が取れないことを不審に思い、実際に海外に出国したのかどうか出入国記録を確認した。すると出国履歴はなかった。父親は異常を感じて自宅を訪ね、犯行の事実を知ることとなった。
チ君は父親が立ち会う現場検証で、犯行当時の状況を淡々と再現した。寝室からはチ君が偽造した成績表と、血のついた体罰用ズボンが見つかった。
国立法務病院で行われた身体検査では、全身に暴行の痕があった。ふくらはぎは変色しており、ゴルフクラブであまりにも多く殴られたためか、臀部の一部がへこんで左右非対称になっていた。
左耳の聴力が低下しており、耳鳴りの症状も確認された。治療観察所で行われた知能検査では、IQ131というK-WAIS基準で「最優秀」レベルと判定された。
チ君は、尊属殺人と死体遺棄の容疑で拘束された後、友人に送った手紙で「親は遠くを見ろというが、“学父母”は前だけを見ろという。親は一緒に行こうというが、“学父母”は先に行けという。親は夢を見ろというが、“学父母”は夢を見る時間を与えない」と苦しかった心情を吐露した。
チ君の事件は国民参与裁判(陪審裁判)で行われ、父親や親族、友人たちから情状酌量を求める嘆願書が提出された。
1審の裁判所は、チ君が犯行当時、「心神耗弱」の状態だったことが認められるとして、長期3年6カ月・短期3年の懲役刑を言い渡した。現行法上、尊属殺人罪には死刑または無期、あるいは7年以上の懲役が科されるため、チ君に下された判決は最低刑の半分にも満たない、法で許容される最も軽い量刑だった。
裁判所は「チ君は犯行当時、母親の体罰で3日間、睡眠も食事もとれない状態であった」とし、「自力で解決できない過酷な状況に置かれていたことが認められ、少年である以上、早期の社会復帰が必要だ」と判断した。
チ君側と検察の双方が控訴したが、2審の裁判所は「1審の量刑は重すぎず軽すぎず、妥当なものだった」として、1審と同じ判断を下した。1審の最終陳述で「日々、罪を償いながら生きている。亡くなった母に申し訳ない」と述べたチ君は、2審では「母に会いたい」と涙を流して悔いた。
チ君は2014年11月に満期出所し、社会に戻った。その後、ある女性と出会い結婚し、家庭を築いて2人の子の父親となった。2024年6月には、あるテレビ番組に出演し「いつか子どもたちにもすべてを打ち明けなければならない日が来る。そのとき、どう話せばいいのか考えながら生きていこうと思う」と語った。
(記事提供=時事ジャーナル)
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